« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »

2006年7月 1日 (土)

軍艦マーチが似合うパチンコ屋

パチンコといえば、軍艦マーチが流れていた そんな雰囲気ムンムンの古き良き時代のパチンコ屋さんを巣鴨で発見しました!

昔のぱちんこ屋さんは、開店と同時に軍艦マーチが店内に流れ(開店音楽)

店員さんのこんなマイクが流れていたものでした。

.

お馴染みの軍艦マーチに乗せられて、

いらっしゃいませ! いらっしゃしませ!! いらっしゃいませ!

ありがとうございます いらっしゃいませ!

本日はあの街 この街 数ある遊技場の中から

当店○○をお選びいただきまして誠にありがとうございます。

本日も出ます 出します 遊べます、

出ます 出します 遊べますと、三拍子も四拍子も取り揃えてのお出迎えでございます。

本日も釘は甘く 甘く広く

お客様ウキウキ 店員ハラハラ営業でございます・・・・・・

.

と言った感じで、滑るような口調での煽りマイクがすばらしかったあの時代・・・・。

今は女性一人でも、お気軽に入れる豪華なホールが多くなりましたが、西巣鴨ではこんなレトロなパチンコ屋さんもあります。

Photo_331 場所は昨日紹介しました「千川上水公園」の合い向かいにある「パチンコ天国」です。

詳しくはこちらをご覧下さい。

昭和37年に創業して以来 建物、内装ともに当時のままで営業しているそうです。(たぶん日本で1番古くて小さいのでは?)

今ではビルとビルの間に挟まれて、ちょっと苦しそうな姿です。

「写真の上でクリックしてちょっと大きく見てください」

建物が左に傾いているのがわかりますよ。(隣のビルとの隙間を見てね!)

店内は全61席 羽物台中心で、昭和の香りムンムンです・・・

現在のハイテクCR機もいいけど、ぜひこんな店で1度は遊んでみるのも、話の種になるんじゃないのかな?

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

.

巣鴨のこだわりにんにくや奈田利亭

2006年7月 2日 (日)

西巣鴨 明治女学校跡

Photo_333 現在の巣鴨2-14-11(都電荒川線庚申塚駅すぐそば)の場所には明治30年から明治41年まで明治女学校(日本初女子学校)がありました。

詳しくはこちらをご覧ください。

近代女子教育のさきがけとして、明治18年に麹町に創立されたが、火事により西巣鴨に移転されたようです。

創立から廃校まで23年間でしたが、多彩な卒業生を世に送り出したそうです(新宿中村屋の創業者「相馬黒光」など)

Photo_334 現在はその跡地は豊島区の高齢者のための複合福祉施設「菊かおる園」が建っています。

「菊かおる園」とは巣鴨が菊造りの発祥である「菊」と明治女学校」の学園を会わせ「菊かおる園」と命名したそうです。

ちょっと残念なのは明治女学校が麹町にあった全盛期には300人もの生徒さんがいたのですが、巣鴨時代には100人と1/3ほどになってしまい23年間で廃業・・・その後、昭和20年に戦災で焼失という運命でした。

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

.

巣鴨のこだわりにんにくや奈田利亭

2006年7月 4日 (火)

おばあちゃんの原宿

1_32  巣鴨地蔵通り商店街がおばあちゃんの原宿と呼ばれるようになったのは、今から21年前からだそうです。

昭和60年に読売新聞社が若者で賑わう原宿と対比させておばあちゃんの原宿と呼んだのがきっかけだそうです。(今なら渋谷かもね)

今では巣鴨=とけ抜き地蔵(高岩寺)ですが、旧中山道だった巣鴨は、江戸六地蔵尊のある真性寺の門前町として栄えてきた土地なのですが、明治24年に上野からとげ抜き地蔵尊(高岩寺)が移転してきて、巣鴨はお地蔵さまにとても縁がある土地だ! という事で、ますます発展してきたようであります。

Photo_336 現在は昔のお店も少なくなってしまったが、まだまだ他の地域から比べると昔の面影が残ってる、山手線の下町ではないでしょうか。

おばあちゃんの原宿を歩いていると両側にいろいろな商店がビルの1階に立ち並ぶようになりましたが、江戸時代の地図と重ね合わせると、なんと現在のビルの幅が一軒一軒の間口の幅と一致してしまうのです。

一軒あたり約6m、江戸時代でいう3間から3間半です。

これは大変興味深いことだと思います

続きはまた明日・・・・・

.

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

.

巣鴨のこだわりにんにくや奈田利亭

2006年7月 5日 (水)

おばあちゃんの原宿2

Photo_337 江戸時代からの歴史を感じさせる そんな巣鴨ですが、現在のように賑わうようになった要因がもう1つあるようです。

とげ抜き地蔵(高岩寺)が移転してから山手線巣鴨駅が開設し、都心部からのアクセスが容易になり、ますます発展してきたといわれております。

Photo_338また商店街においても露天商の導入により新たな商いの形が生まれてきました。(ピーク時の昭和30年代は400以上だったとか)

そして大正12年(1923)に関東大地震が起きて、震災後の復旧事業で現在の白山通り(国道17号)が整備され、これをきっかけに国道には路面電 車も走り交通のメインになり旧中山道は歩行者を中心とした参詣道としての利用が強くなり、ますます商店街の発展に繋がったようです。(高年齢者が安心して歩けるもんね)

中山道の増幅計画は、当初新たにバイパス(白山通り)ではなく商店街を走る旧中山道を計画していたようで、もし大震災がなければ今の「おばあちゃんの原宿」は生まれなかったかもしれませんね。

続きはまた明日・・・・・

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

.

巣鴨のこだわりにんにくや奈田利亭

2006年7月 6日 (木)

おばあちゃんの原宿3

関東大震災後、国道17号線(白山通り)が出来て、参詣道としての利用が強くなり再び賑わいを取り戻した「巣鴨地蔵通り商店街」ですが、また大きな波乱がありました。

昭和20年(1945)4月13日 B-29(爆撃機)による夜間空襲。

Sugamo1 B-29の数は352機ともいわれ、2.119トンの爆弾を投下、それにより巣鴨の豊島区をはじめ、文京区、新宿区、千代田区などが焼け野原と化してしまいました。

写真は米軍が後日現場確認の為に撮影した航空写真です。

赤い線が「おばあちゃんの原宿」です。

Ootsukab 左の写真は大塚駅付近(巣鴨の隣駅)で奥には貨物列車が映っています。

※写真は現在の巣鴨新田付近から大塚駅右側を撮った写真と思われ、左奥の大木は大塚天祖神社のイチョウの木のようです。

その後巣鴨では闇市などで店舗が復旧していき昭和30年代から参詣者も増えてきて、闇市的な商いから徐々に、日常的な買い物をする人たちの対応も含めた店舗が多くなっていきました。

Rekishi05_1 もちろん新たに整備した国道17号(白山通り)も近代化の歩みを進める日本にとって自動車道としての復興は不可欠であるので急ピッチで整備されていきました。

しかし、その後昭和45年頃にもなるとスーパーマーケットも近隣に出来て、巣鴨地蔵商店街が販売する商品等も少しずつ変化が生まれ、お年寄り向けの様々な商品開発を繰り返し、現在の昭和レトロな商店街が生まれてきたようです。(大型スーパーとの差別化)

日経新聞の中で、訪れたいと思う商店街 第1位の巣鴨ですが、そこには地域の弛まぬ努力と歴史を残す郷土愛があったんですね。

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

.

巣鴨のこだわりにんにくや奈田利亭

2006年7月 9日 (日)

最後の将軍 屋敷跡

Photo_341 徳川幕府15代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)が静岡で長い謹慎生活を送った後、ここ巣鴨で明治30年~34年の4年間(61歳から65歳)住んでおりました。

巣鴨邸は中山道(白山通り)に面して門があり、庭には茨城県の水戸(故郷)に因んだ梅林となっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたそうです。

Photo_342 その後小日向第六天町(現文京区小日向一・四丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白-田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされています。

Photo_343現在は住居は残っていませんが、平成10年7月に、跡地の記念碑が建てられました。

「 慶喜は水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の正室吉子の七男として江戸・小石川の水戸藩邸に生まれました。名前は七郎麿と名付けられました。しかし、江戸の華美な風俗に染まらせないという父・斉昭の教育方針で幼少の頃から水戸に移され、育てられた。(よって巣鴨でも梅林を見ることで心が落ち着かれたのでしょう・・・・)

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

2006年7月10日 (月)

巣鴨のもう一つの地蔵尊

Photo_344 巣鴨といえば「とげ抜き地蔵尊」が有名ですが、もう1つ地蔵尊があるんですよ。

場所は都電荒川線の庚申塚駅そば(西巣鴨2-33)にある「延命地蔵尊」です。

お地蔵さんが建之されたのが、今から170年前という事ですから「とげ抜き地蔵尊」より巣鴨では古いんですよ。(とげ抜き地蔵尊は明治24年に上Rekisikosinjizou野から巣鴨に移 転してきました)

ご覧のようにお地蔵様は戦争の影響を受けて表面が剥離してしまっていました。

この延命地蔵尊は中山道で行き倒れた人や馬のなきがらを供養するために建てられたそうです。

※昔は徒歩や馬での旅路だったので途中病気や疲れなどで倒れた人も多かったんでしょうね。

以降毎年8月24日を命日として全人類の平和幸福を願い供養しているそうです。

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

2006年7月11日 (火)

ココログのメンテナンス!

現在私が利用しているブログ「ココログ」ですが、7/11 14:00-7/13 14:00の間次の内容によりメンテナンスを行なうそうです。

よってサーバーへのレスポンスが更に悪化する為、この間は更新が出来ないかもしれません。

内容

◇メンテナンス目的
データベースソフトおよびオペレーティングシステムのバージョンアップを行うことで、ココログデータベースの大幅なレスポンス改善を図り、ご迷惑をおかけしているココログ管理画面の操作が重いなどの状況を解消することです。
大幅なレスポンス改善を実現できれば、各種不具合の原因となっているキャッシュシステムを外すことができます。「他人の記事が表示される」などのキャッシュシステム関連の不具合も一挙に解消することが可能です。

という事のようです。

頑張れココログ! 

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

2006年7月13日 (木)

巣鴨監獄

Photo_345 ここ巣鴨から見た池袋のサンシャイン60ですが・・・・

よく見るとなんだか「墓石」に似ていませんか?(失礼!)

実はね・・・・そう見えてしまうのも、こんな訳があるんですよ。

現在池袋(旧巣鴨村)にある「サンシャイン60」の場所は、かつて「巣鴨監獄」だったんです。

※詳しくは巣鴨プリズン略史をみてね。

08153sugamo01 その歴史は、サンシャインビル隣の東池袋公園の石碑に、痕跡があります。(かつて巣鴨プリズンの絞首刑台跡地)

石碑の表には「永久平和を願って」と彫られていますが、当初は『戦争裁判の遺跡』と彫られていたそうです。(跡地の近隣住民らが「戦犯を顕彰する碑は違憲」として撤去を求める訴訟もあり抽象的な表現に配慮されたそうです)

Dcp_3082_1   「サンシャイン60」の「60」は60階を表わしますが、ある人は「絞首刑人60」の60という方もいるようです・・・・・(60人の墓石?)

巣鴨プリズンには、先の大戦の責任者として断罪された極東軍事裁判(東京裁判)の侵略戦争を計画・遂行したや捕虜に対する虐待等の罪に問われたB・C戦犯合わせて延べ4,000人の戦犯が収容され、東条英機元首相らA級戦犯7人を含む60人の死刑がこの場所で執行されたことからだそうです。(ちょっと考えすぎですよね)

昭和53年(当時は日本一高いビルと騒がれました)に建てられた池袋の象徴である「サンシャイン60」ですが、その場所にはこんな歴史があったんですね。

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

2006年7月16日 (日)

漫画の神様 巣鴨に眠る

明日7月17日は「漫画の日」だそうです・・・という事で今日は漫画の神様「手塚治虫」のお墓をご案内いたしま~す。

Teduka7 都営地下鉄三田線の西巣鴨駅そばの、総禅寺(葱禅寺)にあの漫画の神様「手塚治虫」のお墓があります。

手塚治虫といえば・・・

そ~らをこ~えて~ラ・ラ・ラ・ラで有名な「鉄腕アトム」ですが、昭和26年人気雑誌「少年」(光文社)に掲載されました「アトム大使」がその前身だったんですよ。

Photo_349 「諸君、もし、からだも性質も、なにもかも同じもうひとりの人間があらわれたら、どんなにかゆかいな事件がおこるでしょう! これは、科学万能時代の五十年後の東京にはじまる、すばらしくめずらしい、おもしろい事件をあつかった科学漫画です。…」の予告からのスタートが始まりでした。

最初は天才科学者・天馬博士によって、事故死した息子の身代わりとして作られました、その後サーカスに売られたり悲しい運命に・・・その後お茶の水博士によって助け出され7つの威力と10万馬力で悪と戦う国民的ヒーローになっていきます。

そして「アトム大使」→「鉄腕アトム」(昭和27年)になりフジテレビ開局番組として実写ドラマ『鉄腕アトム』が放送を開始 (昭和34年)され、大人気SF漫画となり日本の未来が見える夢の世界(現実そうなったのがスゴイ!)を私達に与えてくれました。

エピソード

本名は「手塚治」なんですが、昆虫採集が好きだった彼は、名前の似ている昆虫の「オサムシ」から「手塚治虫」(てつかおさむし)をペンネームに使い、その後「手塚治虫」(てつかおさむ)となったんですよ。

詳しくは「手塚治虫」プロフィールをご覧ください。

お墓

Photo_346 お寺は「無断立ち入り禁止」の立て札が立っていました。

ちょっと悩んでいたところ、ちょうどお墓参りに来た人がいたので、理由を説明し、一緒に中へ入ることが出来ました。(ありがとうございました)

※赤門の奥は建物があり、そこを入り受付をしないとお墓まで行けないようです。

Photo_347 お墓参りに来られた方に、「手塚治虫」のお墓まで親切に案内して頂きました。

大阪で生まれた「手塚治虫」のお墓が、まさか巣鴨にあったとは、「感動!」です。

お墓の左横には、漫画が描かれた碑もありました。

Photo_348 そこには「火の鳥」「鉄腕アトム」「りぼんの騎士」「ブラックジャック」「ジャングル大帝」「お茶の水博士」「ヒゲオヤジ」「本人」などが描かれていました。

ム~感動!そしてその下には手塚治虫のサインまでもが鮮やかに・・・・。

60年(1928~1989)というけっして長くはない生涯の間に700作品、17万ページに及ぶマンガを描き残した世界マンガ史の神様「手塚治虫」

「お会できて大変嬉しゅうございました!」 またお参りにきたいと思います。

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

2006年7月21日 (金)

巣鴨にあった大都映画撮影所

巣鴨にこんな歴史文化跡がありました。

当時のヒーロー「ハヤフサヒデト」?で有名な大都映画撮影所」がここ巣鴨にありました。

場所は西巣鴨4-9-1(白山通リ沿い)です。

「大都映画」は大正8年天然色活動写真撮影所としてスタートし⇒国際活映⇒河合映画⇒大都映画と変遷し昭和17年に大映に吸収され幕を閉じた映画会社です。

まだ、テレビの無い時代ですから映画は大衆の数少ない娯楽の1つだったんでしょう。

大都映画は娯楽というジャンルに特化した作品で「ほんとに面白い」と絶賛され、特に昭和3年から15年間の河合・大都映画時代は、年間約100本 計1325本の映画がここで製作されたそうです。

1_33 現在では赤レンガの塀とパネルが当時の面影を少しだけ残しておりました。

パネルには大都映画巣鴨撮影所前身の写真や歴史と当時の映画撮影所の見取り図が記されていました。

ここでしばらく立ち止まって読んでいたら、年配の地元と思われる方が立ち止まって私にいろいろ説明をしてくれました。

Photo_350 年配のその方は、当時を思い出しているのか、嬉しそうにニコニコしながら「ここはその後、朝日中学になって・・・とか、その後また淑徳学園の仮校舎になって・・・・等々」語ってくれました。

たぶん地元の人でも気が付かないで通り過ぎ行くのでしょう? 

立ち止まって見ていた私がすごく嬉しかったようでしたね。(おじいちゃん、ありがとうございました)

Photo_351 という訳で現在は、「創造・発信・交流の拠点」として、子どもも大人も地域住民もアーティストも自由に集えるアートセンター+チルドレンズ・ミュージアムをめざす「にしすがも創造舎」として活躍されています。

いずれにしてもここ「巣鴨」はこのように歴史文化が数多くあるのには私もちょっとビックリです。

さて次はどんな歴史が隠されているのかな?

お楽しみに!

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

スズキ フォトコンテスト

スズキのHPで4月20日~6月20日の間、モーターサイクルフォトコンテストの写真応募を行なっていましたので私も挑戦してみました。

挑戦したキッカケはV0LTY関東組のHPで、ちょっとこの話題で盛りあがっていたので、その勢いで・・・・エイッ!って感じで。

写真はスズキのモーターサイクルが一緒に写っていればなんでもOKで、優秀作品には「ヘルメット」がプレゼントされるということで、ちょうど私のジェットヘルがもうボロボロだったのでちょうど良いチャンスでした。

Photo_352 そうなると、さっそく写真選びです。

オートバイの写真はあまり多くないので選ぶといっても数枚からなんですが、投稿するからにはその中からでもちょっと絵になるものをと・・・・。(1枚1枚に思い出があってけっこう楽しかった)

最初に選んだのはこの写真でした。

バイクの奥に写っている橋と山のモヤっとしている感じがいいかな~?

Photo_353 でもちょっとインパクトに欠けているようなので、ちょっと「おちゃらけ」気分でメーターのトリップが「1.2.3.4.5.6」の写真もピックアップしてみました。

※写真をクリックしてみてね!

う~ん 迷います・・・何か物足りない?

Sv1000s そうだ投稿が少ないと思われるマイナー車種?(SV1000S)ならいいかも?ということで候補に上げてみましたが・・・・・・あまりにも無機質な写真しかありませんでした。(ただバイクだけって感じですよね?)

この3枚の写真ではまったくテーマも浮かんでこないので結局3枚ともボツにしてしまいました。

※写真を眺めていたらついついその頃を思い出しちゃって・・・ちょっと1人でウルウルしちゃいました。

そうだ!何かインパクトのある物が一緒に写っている方がいいかも?・・・ということで再度探すことに。

Photo_354

Photo_355

ということで、ハイテク技術のアクアラインとアンティークな古びたバス亭が入った2枚の写真と現在愛用のスカイウェイブとあじさいの3枚でいざ勝負!とあいなりました。

スズキのHPでは7月上旬に発表となっていましたが、なかなか発表しませんので毎日チェックするドキドキ感が長いと心臓に悪いので15日以降はチェックする事を止めていました。

結果は関東VOLTY組のたぬきさんからの1通のコメントメールで知ることに。

「スズキ、フォトコンテスト入選おめでとうございます。ヘルメットゲットですね。」

エッ!「ウッソー?」

さっそくスズキのホームページを見ると、なんとNO.005 に私の写真が!!!

うれ~し~~い~!

選ばれたのは「旧スカイウェイブ」の写真です。

そして関東VOLTY組からもう1人 NO.038 けんたさんのGSX-Rが選ばれました!

※けんたさんは優秀作品の写真の他にもう1枚、入選されていた写真もあったほどのスゴ腕ですハイ!(名前変えてたらたぶん!メット2個ゲット?かもね)

そんな こんなで「ヘルメット」をゲットしましたが、たぶん記念に!なんて思って被らずに飾ってしまうかもしれませんね。

またHPでは、「第2回 スズキモーターサイクルフォトコンテストを開催予定致しておりますので、ぜひご参加ください。」とありますので、スズキに乗っている方はぜひ応募して楽しんでみてくださ~い。

どれにしようか写真を選んでいるときがとても楽しかったり・・・(いろいろ思いだされて)

今回の写真を見てみると子供・家族・生活・仲間などがヒントかな?

よ~し、また頑張ろう!(アッ!デジカメ 壊れたままだったんだ!チックショー!)

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

2006年7月23日 (日)

遠山の金さん

あの江戸の名奉行「遠山の金さん」のお墓が巣鴨にありました。

Photo_356 場所は豊島区巣鴨5-35-6にある「本妙寺」です。

本妙寺といえぱ江戸の大火事で有名な振袖火事の火元として有名ですが、ほんとうは本妙寺に隣接した「安部家」が火元のようです。

老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜という訳で本妙寺が火元の汚名を引受けたようです。

詳細はこちら

Photo_358 本妙寺境内には、明暦の大火供養塔がありました。

火元である老中阿部忠秋家から260余年にわたって大火の回向供養料が本妙寺に届けられているが・・・・名目は回向供養料ですが、本当は火元の汚名をかぶり、阿部一族をその責任から救ったお礼?とも解釈されています。

あっ!

Photo_359「遠山の金さん」 忘れていました。

すっかり本妙寺の「振袖の火事」の内容になっていました。

今日の本題は「遠山の金さん」のお墓が巣鴨の本妙寺にあります・・・です。

こちらがそのお墓。

お墓の横には名奉行、遠山金四郎景元の墓と書いてあるのですぐに見つけられることが出来ました。

実は金さんの桜吹雪の刺青(今風でいうとタトゥーかな)はつくり話だそうです。

ほんとうは・・・・・なんと!女の生首が巻物を口にくわえている図だったとか?

びっくりですね。

テレビの影響力はすごいです。すっかり騙されるところでした。

だから罪人にも見せることなく刺青はいつも隠していたそうですよ。

blogランキング今何位?←こちらをクリックするといろいろな地域情報がご覧になれます。

 巣鴨のこだわりにんにくや奈田利亭

« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »